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世界文化遺産・元上都遺跡

盛者必衰の理、草原に栄えたモンゴル帝国の都

    壮大なモンゴル平原、ここに築かれた都が大都です。1256年に築城が始まってから約100年と短い間ですが、ここに陪都(都に準じる都市)が築かれていました。今、この場所には建物など何一つ残っておらず、礎石などの痕跡が残るばかり。盛者必衰…などという言葉が思わず頭をよぎります。
    上都はモンゴル語ではナイマンスム、ヨーロッパでは主にザナドゥと呼ばれています。ザナドゥとは上都の中国語発音「Shang Dou」がなまったものであると言われています。かつてはマルコ・ポーロもここを訪れ、大理石の宮殿や内部が金で塗られた建物があると記しています。そのためか「ザナドゥ」は後に「歓楽の都」とも歌われる、桃源郷に近い意味をもつ言葉になっています。
    草原の中、今は亡き都の面影を探しに行きませんか?

世界遺産登録:2012年

元上都
 

元上都遺跡の位置及び周辺情報


     元上都はモンゴル平原の南部、現在の内モンゴル自治区シリンゴル自治区にあります。北京からは北へ300キロ弱ほどの位置で、内モンゴル自治区の中心であるフフホトよりも北京の方が近いのです。付近には牧場や森林公園などがあり、モンゴル平原の大自然を楽しむことができます。

 
 

世界遺産に選ばれた理由

  •      元上都は2002年から世界遺産への申請をスタート、10年後の2012年に世界遺産として登録されました。わずか100年ほどの短い期間ではありますが、ここが歴史上で
  • 重要な役割を果たしたことが認められたのです。2002年の申請からは巨費を投じて修復が進み、現在では博物館なども造られています。

元上都遺跡の歴史及びエピソード

  • 上都の全体像
  •      上都は三重構造になっていました。内側から宮城、内城(皇城)、外城です。ここでいう城とは建物のことではなく、建物が含まれる城壁です。それぞれの城壁は異なる
  • 素材でできていました。宮城は版築(土をつき固めたもの)の外側をレンガで覆ったもの、内城は版築を石で覆ったもの、外城は版築のみと、外にいくにつれて簡素なものに
  • なっていました。外城の一辺は2キロ強、外周は約9キロありました。
  •      宮城には3つの門があり、4隅に楼閣があり、内部には宮殿、役所、官学(学校)がありました。宮城の建物で一番重要なものは大安閣といい、開封(宋の都)の金朝
  • 南京煕春閣の材料で作られていました。内城には役所と官邸、寺があり、外城には皇帝のための庭、役所、寺がありました。上都はモンゴル語でナイマンスムといいますが
  • 、これは108の廟という意味で、寺や廟がたくさんあったことを示しています。実際は寺や廟は108よりも多く、160ほどもあったそうです。
  •      ここには中国の内陸部から来た商人や、中央アジア、ヨーロッパからの商人もいて、モンゴル地区の経済の中心となっていました。現在の人口は10万人ほどですが、当時
  • は多い時で100万人にもなったと言われています。これらの人々は外城の外側の一般住居や商店などがある場所に住んでいました。
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  • 元の皇帝クビライ・ハーン
  •      モンゴル族の王朝「元」はこれまでのモンゴル帝国の名称、イェケ・モンゴル・ウルスをダイオン・イェケ・モンゴル・ウルスと改めたものです。ダイオンの部分が「大元」とな
  • ります。このように名称を改め、中国に中心を移したのが第五代モンゴル皇帝クビライ・ハーン(フビライ・ハーン)です。
  •      クビライ・ハーンはモンゴル帝国を興したチンギス・ハーンの孫にあたります。兄のモンケは四代皇帝です。兄が死んだとき、クビライは自らの根拠地である上都でモンゴル
  • の最高会議であるクリルタイを通さず一方的に即位を宣言、末弟のアリクブケもまた即位をします。そのため2人は争いましたが、クビライは勝利し、現在の北京にモンゴル
  • 帝国の中心を移しました。上都は即位前から作られており、北京(当時は大都)を正式な都、上都は陪都としました。春分から秋分までを、皇帝と官僚たちは上都で過ごした
  • のです。
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  • 上都建設を請け負った漢人官僚
  •      クビライ・ハーンから上都建設を請け負ったのは劉秉忠という人でした。父親はチンギス・ハーンに仕えていたそうです。
  •      劉秉忠は現在の遼寧省出身で、クビライ・ハーンのブレーンとして宰相を勤めていました。若い頃は不遇だったため山に入って僧侶になったのですが、そこの僧侶により推薦
  • されてクビライ・ハーンの臣下となりました。
  •      上都の建設の他、郭守敬に暦を制定させたりと、さまざまに活躍しました。
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  • 上都の最期
  •      上都の建設が始まったのは1256年、その約100年後の1359年には宗教的な農民反乱軍である紅巾軍が一時的にここを占領、また1369年には明朝の軍隊に占領されて
  • しまいました。彼らはマルコ・ポーロの讃えた都を打ち壊してしまい、たったの100年あまりで上都はその命を終えたのでした。

元上都遺跡の見どころ

  • 明徳門、御天門など
  •      明徳門、御天門、それに城壁や角楼(城の角に建てられた建物)、城壁などの痕跡が残されています。どれも昔の姿を忍にはささやかすぎるものばかりですが、大きな空
  • と草原の中にひっそり潜む建物の礎石や壁の名残は、日本人的わびさびの心に響くものがあります。
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  • 元上都遺跡博物館
  •      2012年末にできたばかりの博物館が遺跡から5キロほど離れた位置にあります。元上都に住んだたくさんの人々の残した文物を含む200点あまりの品々が展示されています。

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