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世界文化遺産・河南省安陽市殷墟

3000年を越え、遥かなる古代の世界へ

    中国の歴史の長さはよくあげられますが、その長い歴史の凄まじさを実感できるのがここ、殷墟です。殷墟に人が暮らしていたのは今から約3300年前、日本では縄文時代にあたります。
    前世紀になって発掘されたこの遺跡からは、多くの文字が刻まれた大量の甲骨片、青銅器、玉器などの文物が出土しており、街や宮殿、墓のあとも発掘されています。大量の甲骨片には、天文、軍事、農業、夢の内容など、実に幅広い内容が刻まれ、当時の殷王朝が占いで受け取る神託を中心とした社会であったことを伝えています。車輪を用いた車と道路の跡も発掘されています。これは世界で最も早い車の利用の証拠と言われています。また高さ約133センチ、口径約79センチ、重さ約875キロという巨大な青銅器、司母戊大鼎も発見されており、各方面で技術が高度に発達していたことを示しています。
    3300年、この途方もない年月を越えた古代の世界はどのようなものだったのか、殷墟ではその片鱗をのぞくことができます。現代から遥か古代の中国へ、殷墟へタイムトラベルの旅に出かけませんか。

世界文化遺産登録:2006年

 
 

河南省安陽市殷墟へのアクセス

河南省安陽市殷墟
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  •     殷墟は河南省の北部、安陽市を流れる洹河の両岸にあります。洹河は東に流れて衛河に入って北上し、天津から海へと流れ込む河です。安陽市は北京からは400キロほど南に行った場所、中国文明の発祥地と言われる「中原」にあります。
  •     殷墟の付近には飛行場がないので、鄭州の空港から車で移動することになります。移動時間はおよそ3時間ほどです。
 

世界遺産に選ばれた理由

  •     中国の王朝で最も古いとされているのが夏、次が殷です。殷墟の発見により、それまで文献の上だけの存在であった殷という王朝が実際にあったということが確認されまし
  • た。このことから殷墟は2006年に世界遺産に登録されました。
 

河南省安陽市殷墟に関するエピソード

  • 「殷」という名前
  •     殷とは後の世の人々がこの王朝を呼んだ名前です。殷という王朝を築いた人々は自分たちの王朝を「商」と呼んでいました。それは殷を築いた人々の先祖が商(商丘)
  • という名の地に封じられたからです。そこでこの部族の名前を商としたのです。後に商は殷に遷都しました。そのため、殷商と言うこともあります。
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  • 薬として使用されていた甲骨
  •     殷墟から発掘される甲骨は、昔「龍骨」という名前で薬として流通していました。甲骨が薬として使用した初めての人は、ひとりの床屋だそうです。床屋には膿みがでる
  • 傷がありました。しかし彼には薬を買うお金がありません。彼の住む地方では畑からよく甲骨がでてきていました。試しに彼はこの骨をすりつぶして傷口に塗ってみたのです
  • 。すると傷口は乾燥し、止血の効果もあることがわかりました。そこで床屋はこの畑からでてくる甲骨を集めて、龍骨といって漢方薬屋に売ることにしたのだそうです。
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  • 殷墟の発見
  •     殷墟の発見は王懿栄という人物がきっかけになったと言われています。この王懿栄という人は清末の金文学者です。金文学というのは青銅器や碑文など、古い時代の文
  • 字を研究する学問です。
  •     王氏が病気になって漢方薬を飲んでいるとき、処方箋に「龍骨」という文字を見付けました。いったい龍骨というのは何だろうかと思った王氏は、すりつぶす前の龍骨を探
  • しました。見つかった龍骨には文字のようなものが刻まれています。古い文字を研究している王氏ですから、この龍骨は重要なものであると考え、骨を買い集めることにしま
  • した。残念ながら集め始めてすぐの1900年、八か国軍が北京に攻め入った時に王氏は井戸に身を投げて死んでしまいました。しかし彼の集めた龍骨コレクションは劉鶚と
  • いう人物に託されていました。この人物は有名な作家でもあります。劉氏はこの甲骨コレクションの拓本を書籍にして出版しました。
  •     やがて1908年、羅振玉という人物がこれらの甲骨が安陽の村から出荷されていることを突き止めます。甲骨上の文字からは殷の王様の名前も発見されていました。そこ
  • でこの地が殷の都なのではないかと、推測されたのです。
  •     この頃の中国は清から中華民国にいたる、動乱の時代でした。ですから実際に発掘が開始されたのは1928年のことです。
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  • 殷墟の時代
  •     殷墟のある場所が都となったのは殷王朝の後期です。殷は建国後何度も遷都していました。その理由は王族の争いであるとか、河の氾濫であるなどと言われていますが
  • 実際はよくわかっていません。しかし殷墟の場所に遷都してからは問題が落ちついたようです。
  •     この殷墟を都であったときの殷の中興の王が武丁です。甲骨文字には文武丁とも書かれています。彼の時代には周囲の外敵が打ち倒され、また青銅器の技術も発展し
  • ました。
 

河南省安陽市殷墟の見どころ

  • 殷墟王陵遺跡
  •     洹河の北岸にある殷代の墓群です。ここからは13の大きな墓、2000以上の副葬墓が発見されており、たくさんの青銅器や玉器、陶磁器などが発掘されています。
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  • 宮殿・宗廟遺跡
  •     宮殿などの遺跡がある場所で、博物館もここに作られています。10あまりの代表的な建物が再現されています。
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  • 婦好墓
  •     殷の中興の王、武丁の妻が婦好です。彼女は自ら兵を率い、北方の羌という部族と戦いました。甲骨文には羌人を捕虜にしたとか、生け贄にしたという記述が多く見られ
  • るそうです。
  •     婦好墓は深さ約7.5メートル、大きさは南北が約5.6メートル、東西が約』4メートル、発見されている墓の中では唯一の、完全に保存された王族の墓です。
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  • 洹河商城遺跡
  •     「城」は中国の場合「街」を意味します。商城は一辺2キロあまりの四角い形をしており、四方には城壁が築かれていました。
 

安陽の基本情報

 
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