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世界文化遺産・北京頤和園

中国王朝文化最期の華、巨大なロイヤルガーデン

    現存する最大規模のロイヤルガーデン、それが頤和園(いわえん)です。約2.97平方キロメートルという広大な面積に、大きな湖と100以上の美しい建築物を備えており、承徳の避暑山荘、蘇州の摂政園、留園とともに中国四大名園のひとつとされています。
    清朝の始めに造られましたが、1860年、アロー戦争で英仏連合軍が北京に入った時に、一度破壊されています。その35年後の1895年、日本と清が戦った年に頤和園は再建されましたが、この再建には軍費も流用され、その為に清は敗れたとも言われています。
    清朝が滅びた後、頤和園は1924年から一般に公開され、現在では北京を代表する観光地のひとつとなっています。満々と水をたたえた昆明湖を中心とした緑あふれる美しい庭園は、北京を訪れる人の心を和ませてくれます。

北京頤和園 北京頤和園 北京頤和園

世界遺産登録:1998年

北京頤和園
 

北京頤和園の位置及び周辺情報



     頤和園は故宮から北西へ直線距離で約14キロ、環状道路の四環と五環の間にあります。頤和園の北側には地下鉄4号線の北宮門駅があり、交通は便利です。Mたすぐ東隣には圓明園があり、西側には北京植物園や香山がある山がちな風景が広がっています。

 
 

世界遺産に選ばれた理由

万里の長城
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  •      頤和園は1998年に世界遺産に登録されました。中国の文化の粋を取り入れたロイヤルガーデンの建築、
  • デザインが評価されたものです。
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頤和園の見どころ


昆明湖
  • 昆明湖
  •      昆明湖は頤和園の約4分の3を占める半人工の湖です。万寿山が瓮山と呼ばれていた頃は瓮山泊と呼ばれていて、
  • 街の西にあるので西湖とも呼ばれていました。金王朝の時代には皇帝の行宮が作られ、沼沢地だった瓮山泊に水が引き込まれ
  • て貯水池となりました。
  •      その後、元朝が中国を統一した時には、天文学者であり、水利の専門家であった郭守敬が北京北側の昌平県から
  • 瓮山泊を通じて北京市内まで通じる運河「通恵河」を掘削しました。瓮山泊はこの運河の水の貯水庫となりました。
  •      明代には瓮山泊の手入れがされていなかったために面積は減りましたが蓮が植えられ、周辺には田んぼが広がる江南風
  • の雰囲気となり、皇帝が遊覧に訪れることもありました。
  •      昆明湖が現在の大きさになったのは清代になってからです。清の4代皇帝である康煕帝がこの地に庭園を造ろうとして、
  • 瓮山泊を開拓したのです。皇帝はこの湖に、昆明湖という名を授けました。
  •      現在、昆明湖は堤によって3つの部分に分かれていますが、それぞれに小さな島があります。この島は中国の伝説の中で
  • 東の海にあるといわれる3つの神山、蓬莱、方丈、瀛州を表しています。
万寿山と佛香閣
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  • 万寿山と佛香閣
  •      万寿山は昆明湖の北側にある高さ約59メートルの山です。中腹には頤和園で一番高い建物、佛香閣が建てられています。
  • 佛香閣は21メートルの台の上に建つ八角形の四重櫓で、高さは41メートルもあり、内部は8本の巨大な柱で支えられています。
  •      1856年から始まったアロー戦争の終わりに英仏連合軍が北京に攻め込んだ時、頤和園は破壊され、佛香閣も壊されて、
  • しまいました。後に11代皇帝の光緖帝が再建し、1894年に現在の姿となりました。
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長廊
  • 長廊
  •      昆明湖の北側に長く続く屋根のある通路は「長廊」と呼ばれており、全長約728メートルあります。
  • これは中国に数ある庭園の中でも最長で、1992年には世界最長としてギネス入りしています。
  •      頤和園の建物には美しい彩色がされていますが、特にこの廊下のものは見物です。こうしたカラフルな彩色は「彩画」
  • と呼ばれるものです。最も格式の高い彩画は「和璽彩画」と呼ばれ、龍や鳳凰が描かれますが、この長廊の彩画は風景や
  • 三国志などの物語の場面、花や鳥など、様々な内容が描かれています。これは「蘇式彩画」と呼ばれるもので、格式は
  • 和璽彩画よりも劣ります。しかし西太后がこれを好んだため、この彩画が採用されたそうです。

頤和園の歴史及びエピソード

  • 頤和園の歴史
  •      頤和園の前身は「清漪園」という庭園です。この付近には三山五園と言われる、3つの山と5つの庭園がありました。山は万寿山、香山、玉泉山、庭園は静宜園、静明園、暢春園、
  • 圓明園、そして「清漪園」です。「清漪園」は5つの庭園の中で最後に造られたものでした。
  •      「清漪園」は清の6代皇帝乾隆帝が1750年、母への孝行のために造ったものです。その後、アロー戦争の時に英仏連合軍に壊されてしまいましたが、1888年、11代皇帝である
  • 光緖帝の時に、西太后の隠居用の庭園として再建されました。修復は代々清朝の建築物を設計してきた雷一族の7代目が担当しました。
  •      再建された「清漪園」は「頤和園」と改名されました。この名称の由来は「頤養沖和」、身体と心を安らげることを意味しており、隠居の場所としてぴったりな名称であると言える
  • でしょう。
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  • 頤和園の3つのエリア
  •      頤和園は3つのエリアに分かれています。昆明湖の東側にある仁寿殿に代表される公のエリア、楽寿堂、玉欄堂、宜芸館などの皇帝たちの生活エリア、それから万寿山、
  • 昆明湖といった風景を楽しむエリアです。
  •      公のエリアには大臣たちと接見するための仁寿殿の他に東宮門があります。この門に掛かっている「頤和園」の文字は光緖帝の手によるものです。光緖帝の書はもうひとつ、
  • 生活エリアの楽寿堂にもあります。
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  • 江南への憧憬
  •      頤和園の風景は瑞々しい雰囲気をたたえています。それは頤和園が杭州にある西湖の風景をもとに、江南庭園のデザインを取り入れて造られているからでしょう。
  • 昆明湖には湖を横断する白い堤があり、その付近には6本の橋が造られています。これは西湖の蘇堤と6つの橋を模したものです。
  •      また北宮門のそばには蘇州街と呼ばれるエリアがあります。湖の細い部分の両側に江南の水郷を模したもので、ここには「清漪園」だった時代に骨董品、絨毯、点心、
  • 茶楼などの店舗がありました。これらの店舗は本物ではなく、皇帝がやってきた時にだけ開く、「お店屋さんゴッコ」の店舗です。これらの店舗で働いているのは、宮女や
  • 宦官たちでした。
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  • 幽閉された皇帝
  •      1998年、11代皇帝光緒帝の下で、康有為らによる改革が進められました。戊戌の変法と呼ばれるこの改革運動は、あまりに急激な近代化により反発を呼んでうまく進まず、
  • 約100日の後に改革派はクーデタを起こそうと画策しました。このクーデタは失敗に終わり、康有為らの一部は処刑され、一部は亡命、そして光緖帝は頤和園に監禁されることと
  • なりました。
  •      光緒帝が監禁されていたのは生活エリアにある玉欄堂です。光緒帝はここに監禁されたまま、1908年に死去します。後に遺体が調べられましたが、その頭髪や衣服からは
  • ヒ素が検出され、光緖帝は毒殺されたと確定されました。光緒帝が崩じた翌日には、光緒帝を監禁した西太后も亡くなりました。
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