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世界文化遺産・秦の始皇帝陵 兵馬俑

中国を統一した皇帝の大軍勢

     ずらりと並ぶ等身大の兵士像。ひとつひとつが異なる表情をもっており、また驚くほどの写実性で、その後の中国の美術とは一線を画するように思われます。
    兵馬俑は1974年に「発見」されたばかりの遺跡です。兵馬俑は紀元前3世紀、中国を初めて統一した始皇帝の陵墓の副葬品として埋められたものです。ただ即位と同時に築き始められたこの陵墓が誰にも知られなかったはずはありません。明代にかかれた本には、宋代にこの陵墓が盗掘にあっていることが記されています。ただ近代になってこの存在が再発見され、そして研究が始まったのが1974年なのです。
    1974年、干ばつが起こっていたこの年、井戸を掘ろうとした農民が陶器のかけらを掘り当てました。これが兵馬俑の一部だったのです。
    中国を平定し、巨大な権力を手にした皇帝の残した遺産、その壮麗さはまさに人類の至宝にふさわしい風格があります。

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世界遺産登録:1987年

秦の始皇帝陵 兵馬俑
 

秦の始皇帝陵 兵馬俑へのアクセス

  •   数々の王朝が都とした西安にはさまざまな遺跡が残されています。秦の始皇帝陵と兵馬俑はこの西安の中心部から北東に40キロほど離れた山の麓にあります。市内から車なら、だいたい45分で到着することができます。
  •   他に有名な遺跡としては、三蔵法師ゆかりの大雁塔、楊貴妃が湯浴みしたと言われる華清池、近代史上の大事件である西安事変の址など、数日ではまわりきれないほどの多くの遺跡が残されています。
 
 

世界遺産に選ばれた理由

  •   秦始皇帝陵と兵馬俑は1987年に世界遺産に登録されました。紀元前に造られた大きな文化、美術遺産であり、たった一代で歴史上に大きな足跡を刻んだ秦の始皇帝の陵墓であるこの遺跡の重要性が認められたものです。
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秦の始皇帝陵と兵馬俑の歴史及びエピソード

  • 秦の始皇帝
  •  始皇帝が即位したのは数えで13歳の時、自ら政治を行うようになったのは22歳の時だそうです。39歳にして6つの国を平定して中国を統一しました。皇帝という名称を初めて称したのはこの人が初めてです。皇帝という名称は古代の8人の優れた帝王を称した「皇」「帝」という尊称をひとつにしたもので、始皇帝が初めて名乗りました。だから「始」めての皇帝という意味で「始皇帝」と言います。
     始皇帝が残した業績はたくさんあります。万里の長城の建設、度量衡の統一、漢字の統一、郡県制の施行、これらは中国をひとつの国とするための方策です。焚書坑儒などで批判されることもありますが、1代にしてこれらのことを成し遂げた始皇帝は傑物というべきでしょう。
     しかし万里の長城や始皇帝陵という巨大工事の実施は、国を疲弊させました。秦は始皇帝が没した後、次の2世皇帝の時代に滅びてしまいます。同じく大きな工事を行った隋が短命で終わったのと通じるものがあるでしょう。

  • 始皇帝陵の工期
  •  始皇帝陵は始皇帝が即位した年から造られ始めました。始皇帝が13歳だったときで、当時はこれが普通でした。
     始皇帝が生きているうちに始皇帝陵は完成しませんでした。完成したのは死去してから1年経ってからで、なんと完成までには38年の月日がかかりました。しかし実はこれは中止せざるを得なかったから終わりにしただけです。最後の仕上げ工事を行っているときに、秦朝への反乱である陳勝呉広の乱が起こりました。この軍隊が陵墓の近くまで来てしまったので、墓を造る人夫をこれの討伐に当てたのです。この反乱がなければ、陵墓はもっと違う形になっていたのかもしれません。

  • 始皇帝陵の発掘
  •  兵馬俑は始皇帝陵の周辺にある副葬品です。本来の始皇帝が眠る陵墓はいまだ発掘されていません。場所については土が盛られている場所であろうと推定されています。始皇帝陵には人魚の油のろうそくがともり、天井には天文が描かれ、地面には山河が造られており、そこには水銀で造られた川が流れていると書物には書かれています。この話は嘘だろうと思われていましたが、始皇帝の陵墓付近で水銀の蒸発したあとが検出されたので、人魚はともかく天井や地面の造りは本当である確立が高まりました。
     兵馬俑を発掘したときには兵馬俑の顔料が空気に触れて気化してしまいました。陵墓の発掘ではこのようなことがないように、保護できるだけの技術ができてから発掘することになっています。

  • 東を向く陵墓
  •  兵馬俑などからみると、この陵墓は東向きに造られていると考えられています。昔は君子は北に座り、南を向くものでした。ですから帝王の陵墓は南を向いています。なぜ始皇帝陵は東向きなのでしょうか。
     理由はいくつか考えられています。ひとつは徐福が東に蓬莱を探しに行ったように、東にある楽園を望むために東を向いているというものです。また別の話では、秦は征服した六国の西側にあるので、死後も東の国々を見張るために東向きにした、というものもあります。
     しかし秦の墓を発掘してみるとほとんどの墓は東を向いているそうです。当時は君子は西に座って東を向くという風俗だったようで、始皇帝の陵墓もこれにならって造られたというのが正解のようです。
秦の始皇帝陵 兵馬俑
 

秦の始皇帝陵と兵馬俑の見どころ

  • 兵馬俑の作り方
  •  兵馬俑はどのように造られたのでしょうか。兵馬俑は部分部分に分けて成形されており、その部品を焼いてからくっつけたり、あるいはくっつけてから焼いたりしています。
     兵馬俑は空気に触れたのち酸化して消えてしまいましたが、もともとは彩色されていました。素焼きの兵馬俑には色が塗りにくいため、工夫がされていました。成形された兵馬俑は焼く前に表面に決めの細かい泥を塗って光沢を出します。またそのあとには膠質のものを塗って塗りやすくしてあります。肌色の部分にはまず赤を塗り、次に白を重ねて、更にピンクを塗って肌色をだします。目や眉は黒で彩られます。服は一色で塗られていますが、隙間や袖口には違う色を塗って質感をつけています。多く使用されている色は、赤、青、緑だそうです。

  • 兵馬俑の配置
  •  兵馬俑は3つの穴におさめられています。1番最初に発掘されたのは1号坑、その東北にあるのが2号坑、2号坑の西に3号坑があります。3つの穴は品の形に並んでいます。そのなかで一番大きいのは1号坑です。1号坑は東西が230m、南北62mあり、6000以上の歩兵の兵馬俑が見つかっています。2号坑からは戦車と弓兵の兵馬俑、3号坑からは戦車と兵士の兵馬俑です。これは古代の布陣の様子を再現したもので、3号坑は1、2号坑の指揮部なのです。

  • 兵馬俑の種類
  •  兵馬俑はそれぞれの職務にあわせた格好をしています。例えば将軍は冠をかぶり、大きな身体で鎧をつけています。文官は身体は小さめです。歩兵は鎧を着ていたり来ていなかったり、冠はつけていません。
     兵馬俑の平均身長は1.8m、顔は様々な民族が確認されます。また髪型もひとりひとりすこしずつ違っています。六国を平定した秦はさまざまな地域から兵士を徴兵していたのです。
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