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世界文化遺産・高句麗の首都と古墳群

韓国の歴史ドラマでもおなじみ
日本、中国、朝鮮、古代の三国をつなぐ史跡

    高句麗という名は中学、高校時代の社会科で耳にしたことがあるのではないでしょうか。高句麗は古代日本とも関係の深い国です。朝鮮半島北部の位置し、版図は現在の北朝鮮から中国にまたがっていました。高句麗の首都と古墳群はその中国側にある世界遺産の名称です。
    好太王碑を始めとする幾多の文物が残るこの地には、日本の古墳にも残る玄武、白虎、朱雀、青龍の四神の壁画や、中国大陸の隷書が残るなど、中国から日本への文化の伝播を物語るような史跡が残されています。
    古代の中国、朝鮮、そして日本。文化を伝え、関係を続けて来たこの3国の古代の息吹を感じに出かけてみませんか?

高句麗の首都と古墳群

世界遺産登録:2004年

高句麗
 

高句麗の首都と古墳群の位置及び周辺情報

 
 
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  •  世界遺産「高句麗の首都と古墳群」がある吉林省集安市は省都である長春市からは南に約420キロ、隣の遼寧省の省都瀋陽市からは約240キロの位置にあります。それよりも近い大きな都市は北朝鮮の首都平壌、こちらからは約230キロの位置にあります。集安市は北朝鮮との国境にある街なのです。
     集安市市内には五女峰や瑠璃洞という鍾乳洞などの美しい自然が溢れています。
 

世界遺産に選ばれた理由

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  •  高句麗の首都と古墳群はその名の通り、今は滅びた高句麗という王朝が遺した史跡です。その文化、時代を表現している史跡として、これらの史跡は2004年に世界遺産に
  • 登録されました。北朝鮮にも高句麗の遺跡が遺されていますが、これも同時に登録されています。
  •  高句麗の首都と古墳群に含まれるのは五女山城、丸都山城、国内城の三つの都市遺跡と、王族、貴族らの古墳群です。
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高句麗の首都と古墳群の歴史及びエピソード

  • 高句麗
  •  高句麗とは紀元前37年(紀元前2世紀という説もあります)から668年まで朝鮮半島北部に存在した王朝の名称です。百済、新羅とともに日本史の教科書には必ず登場する
  • 国ですから、聞き覚えがある方も多いでしょう。最近流行の韓国ドラマでも高句麗の歴史を取り扱った「朱蒙(チュモン)」というドラマがあります。朱蒙は高句麗の初代の王のこと
  • です。
  •  国名は高麗ともいいます。建国の地は卒本城といいますが、この城は五女山城にあたるのではないかといわれています。
  •  日本と高句麗は戦争をしたことがあります。朝鮮半島に高句麗、新羅、百済、任那、加羅などの国々が存在した時期、朝鮮半島の覇権を巡る戦いに当時「倭」と称されていた
  • 日本も参戦したのです。4世紀末から5世紀始めの時代、日本は古墳時代でした。
  •  この戦争の頃が高句麗の最盛期です。この時期には好太王という王様が活躍していました。
  •  5世紀に最大版図を会得した高句麗ですが、その後はそれ以上の繁栄を得ることもなく、中国の唐の大軍により滅亡してしまいます。しかし高句麗は中国という大きな文明の
  • 隣国として、時には服従し、時には争いながらも約700年に渡り王朝を継続し続けたのです。
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  • 好太王
  •  好太王は高句麗の歴史の中でももっとも有名なものでしょう。好太王は4世紀末から5世紀初めに現れた高句麗最盛期の王です。在位期間は391年から412年、諡(おくりな)
  • は広開土王といいます。その諡の通り、好太王は高句麗の領土を大きく拡大しました。その子ども長寿王が建てた「好太王碑」は世界遺産のひとつですが、記された事績の中
  • には、その頃朝鮮半島に大きく関わっていた倭国のことも記されています。
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高句麗の首都と古墳群の見どころ

  • 国内城
  •  高句麗の初期の都城「卒本城」は現在の五女山城で、その後の西暦3年に首都は国内城に移ったと言われています。国内城は平野に作られた平城で、石で城壁が築かれま
  • した。首都が移転する前からここには街がありましたが、その頃は土の城壁だったそうです。現在残る城壁は3世紀頃に築かれたものだと言われています。
  •  東側の壁が514メートル、西が699メートル、南が749メートル、北が779メートルで、石垣の下の方は階段状になっています。四隅には角楼という見張りのための建物が造ら
  • れ、城壁には一定距離で「馬面」という凸状に突出した部分がつくられています。現在残る城壁は幅7〜10メートル、高さは3、4メートルほどです。城壁の門は南北に1か所ずつ、
  • 東西に2か所ずつの計6か所が設けられています。
  • 丸都城
  •  集安市北の丸都山に築かれた山城です。東、西、北の三方が絶壁となっており、要塞として非常に適した造りとなっています。この丸都城も高句麗の都城です。国内城を
  • 守るための城(衛城)ですが、どちらも都城として機能していました。これは世界的にもめずらしいものです。
  •  197年に遼東半島を勢力範囲とする公孫氏と戦ったときに国内城が壊されてしまい、この城が代わりに使われることになりました。427年に高句麗の首都は平壌城に移りま
  • すが、国内城と丸都城は首都が移ってからも政治、経済、文化の中心とされていました。
  •  丸都城は唐が高句麗を滅ぼした後も都護府(中国王朝が辺境警備、統治のために置いた軍事機関)の建物として使用され続けました。
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  • 五女山城
  •  高句麗の始祖である朱蒙が築いた卒本城だといわれている山城です。城壁の高さは6〜8メートル、城の外には十八盤という曲がりくねった道路があり、侵攻しにくなって
  • います(「盤」という字には曲がりくねるという意味があります)。東西は300〜500メートル、門は3つのみです。現在は門の階段と礎石、門衛室などが残されています。
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  • 王墓、貴族墓
  •  城の周囲には7000ほどの高句麗時代の墓が遺されており、洞溝古墓群と呼ばれています。好太王の陵墓である太王陵の東側には好太王の事績を記した有名な碑、好太
  • 王碑があります。古墳にはたくさんの壁画が残されているのも特徴です。「角抵」という2人で行う格闘技の壁画が残されている角抵墓、長い袖の男性と女性が踊る姿が描かれた
  • 舞俑墓、また日本のキトラ古墳、高松塚古墳のように玄武、白虎、青龍、朱雀が描かれた墓もあります。
  •  ピラミッドのような外観の墓もあります。この墓は将軍(土偏に文)と呼ばれており、高さは12メートルあまり、各辺ごとに平たい巨石が凭せ掛けてあります。
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